プロフィール

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略歴

  • 群馬県高崎市出身
  • 1944年4月12日生まれ
  • 千葉大学工学部電気課卒
  • 日本電波工業株式会社・電子機器部
  • 都議4期16年(1989~2009年)
  • 議会運営委員、衛生・労働・経済・委員長、文教委員長、
    党都議団副幹事長など歴任
  • 2012年「革新都政をつくる中野の会」代表世話人
  • 2013年6月の都議会議員選挙で、都議5期目に。

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自己紹介と政策をまとめたパンフレットです。

ぜひご覧ください。

(PDFファイル2MB)

1,自然の中で

我が家は、戦前は金物屋でしたが戦争が激しくなるにつれ金物を供出するので廃業して、父は軍需工場で働くようになったそうです。近くに高崎城址があり、当時は軍部・高崎連隊が配備され軍人幹部が我が家にも宿泊し馬に乗って出かけたそうです。

かつては織物の取引が盛んでなところで元絹市場が家のそばにあった影響もあってか、戦後は、呉服の行商をしながら「かまや呉服店」として本店、分店を構える までになりましたが、金物屋の「かまや」という屋号をそのまま使っていました。しかし、小さい呉服屋では最早やっていけない時代になり寂しさが残ります。

私 は9人兄弟の8番目で、今ではこんな子沢山の家はなくなりましたが、商売で忙しい両親に代わって姉たちに育てられたというのが実感です。夏休みになると親 の実家がある新潟県、柏崎市に連れていかれ、農業を営む長女家族の家でセミとり、海水浴、植物標本づくりなどで過ごすほうが多かったのを覚えています。と にかく自然が大好きで高崎城のお堀や烏(からす)川で魚釣り、観音山で化石さがしに夢中になって遊びあるく少年でした。

ま た、店は商店街の真ん中にあり、正月二日からの初売りやお祭り、大売出しのときには店番をして手ぬぐいたたみを面白がって手伝いました。町内にあった教会 にも行事のときだけ参加するにわかクリスチャンでしたが、今考えると、子供ながらに「弱きを助け・・・」の精神をここで学んだように思えます。

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2,エジソンやユトリロにあこがれて

 戦後の民主教育を受け、のびのびと育ち、中学校では理科部に所属し化学実験や鉱石ラジオ、5球スーパーラジオの製作などに熱中し、高崎からわざわざ東京の秋葉原まで部品を買いに通うなど電球の発明家・エジソンにあこがれる少年でした。

高校生活(高崎高校)では朝は美術部でデッサンを、昼は理科部や数学部で過ごし、夕方にはまた美術部で油絵にとりくむなど学業よりも興味のある部活に熱心でした。高崎高校の美術部の先輩に、熱心な応援者がいて、その方の別荘で油絵の製作や美術談議に花を咲かせ、展覧会も開くなど夢中になっていました。おかげで 成績はどんどん落ちる一方、一浪してから発奮し千葉大学工学部電気科に。

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3,青春―夢中で突き進み人生の転機になった、学生うたごえサークル「ウボイコール」

エジソンにあこがれて入学したはずが、電気科の授業よりも、社会の矛盾に目覚めて目が開き、社会運動(?)走り出しました。

歌が苦手なはずなのに千葉大学の学生うたごえサークル「ウボイコール」(長い間「U Boj」はチェコ民謡と思っていたが、実はクロアチアの歌)で「平和のうたごえ」運動に参加して走る青春時代でした。

先日、40年ぶりに、「ウボイコール」の同窓会に仕事の合間を縫って出席した。最初は、一体誰が誰だかわからなかったが、少し話し始めると不思議なもので 40年前にもどった会話になってきた。みんな卒業後、学校長、教師、化学系の会社、医者など総合大学らしい多種多彩な人生を過ごしてきた40年の空白が不 思議でならない。挨拶で近況をといわれたが懐かしさが先立ってまともな挨拶にならなかったが、先輩から変にほめられ面映かった。

当時の活動や恋愛関係についてなど40年の空間を越えた不思議な会話になり再会を約束してきました。

実は、「ウボイコール」は、私の青春と私の人生を決めたかけがえのない5年間(サークルに夢中で卒業に5年かかった)でした。音痴なのに合唱の指揮者に挑戦 する、地域の民謡の掘り起こしに飛び歩く、「平和のうたごえ」といっては被爆者のうたごえ、労働歌や反戦のうたごえに熱中し、岩手や秋田の"へき地"の学 校訪問、平和運動にも飛び込むきっかけだった。高校のとき街頭で行っていた原水爆実験反対の署名をしたことがきっかけで社会運動に関心を持つようになった が、こうした大学でのサークル運動で本格的に力を注ぐようになったのです。同時に、ベトナム戦争が激しくなる中で、連日の反対運動に参加して、平和憲法を 持つ日本人として反戦平和を貫く日本共産党に必然のように入党しました。まさに若いということで何事にも飛び込んで人生の転機をつちかった青春時代でし た。

4,超音波探傷機の製作/妻と取り組んだミュージカルの創作

日本電波工業株式会社に入社して、超音波のドップラー効果をつかって鉄板の傷を発見する超音波探傷機や母親の胎児の健康状態をはかる心音計の研究開発部門で 働いていました。昼休みや夜は組合をつうじて平和運動に取り組み、労音運動にも夢中になるなど、日進月歩ですすむ電気技術の勉強と仕事、活動の両立は実に 大変でした。

仕事の合間を縫って職場の労音(勤労者音楽協議会)サークル主催で「昼休みうたう会」を開くと30人も若者が集まりました。

実 は、私が結婚したきっかけになったのが、渋谷地域の労音で主催した創作ミュージカル「雑草の青春」で、実行委員長が中川アイ子で、副実行委員長が私で地域 のみんなと真剣に取り組み成功させる中で2人が結婚することになりました。仲間による手づくり結婚式をあげ、狭い会場にぎゅうぎゅう詰めでしたが本当に楽 しく、仲間に祝福された人前結婚式でした。

5,親兄弟から猛反発

組合や労音運動に真剣にとりくむ私に、共産党の専従活動家にならないかとの要請があり、電気の仕事も好きでしたし、共産党の仕事にも飛び込みたいし悩みに悩んだ結果、最初の仕事として赤旗渋谷分局員になった。母親はびっくりしてオロオロするばかりで親・兄弟が家族会議を開いて説得され、説得できないとわかると妻が悪いと妻までが責められるなど大変な思いをしました。当時はなかなか理解されませんでしたが、今では良き理解者です。

共産党の専従になり収入が減って家計は大変になるのは目に見えていましたが、妻は平和な社会を目指す生き方で一致していたので特に反対はしませんでした。共に政治革新のために力を尽くし、前向きに生きる道を選択してきました。

6,4期16年の議員活動、初心忘れまい

先輩の後藤マン都議からの推薦で立候補して45歳で都議会議員に当選、今ではなつかしい有楽町の歴史的都庁舎にかよい、見ること、なすことすべてがびっくりでした。正直、都政の現場を余りにも知りませんでした、視察では泊まったことのない一流ホテル、黒塗りのハイヤーを特権であるかのように乗り回す議員がいる、「先生」と呼びあう不思議で、おかしい世界だと感じました。

私の議員生活の中で思い出になると同時に戒めてきた三つのこと

一 つは、都議会の改革です。

 私が都議になったばかりの経験は驚くことの連続でした。議会のたびに(飲み食い)懇談会が公費負担で開かれ、黒塗りのハイヤーは使い放題・新年会まわりなど私用に使う議員もいました。海外視察では目を白黒させるような豪華な経験をしました。マスコミから海外視察についての取材があり、いかに豪華だったかや視察目的がかならずしも目的どおりでなかったなど、経験にもとづく疑問や問題点を語り、それが報道にも生かされました。そうした経験を都議会改革検討委員会の一員にもなって積極的に指摘し改善を求めてきました。共産党議員団独自の運動やマスコミの力もあって一定程度改善 をさせてきました。

 公費での(飲み食い)懇談会は中止になり、視察においては公費と私費の負担分をはっきりさせ、視察の内容の充実などを図ってきました。(その後、内容 が改悪されたので共産党は海外視察には参加していません)また、黒塗りのハイヤーは公務以外に乗らない、バスや地下鉄の無料パスを返上させるなど改善させて きました。つねに、庶民の心、初心を絶対に忘れまいと戒めてきました。

二番目は、97年の都議選で共産党議員が26人(定数128人)に躍進、約20%の議席占有率を勝ち取った都議会第二党の重みを実感したことでした。国会議員に比較すると100人の議員に匹敵。

第二党として都民の要求をとりあげ、水道料金など公共料金の一斉値上げを2度にわたってストップさせ、乳幼児医療費助成の年齢制限を入学前まで引き上げ、所得制限を緩和させてきました。また、日本共産党が独自の都議会情報公開条例案を提案し、各党をまきこんで都議会情報公開条例を策定しました。

こ の間、福祉手当のきりすての影響や介護保険の影響など各分野で実態調査を繰り返し行い、広く都民の切実な要求をとりあげてきました。文化施設料金の値上げ 問題では文化団体との共同が広がり、不十分ではありましたが是正させました。都民要求を反映させるため、予算の組み替え案を提案し都議会第二党にふさわしい奮闘をしました。以降、毎年、予算の組み替えを提案しています。

三つ目は、委員会活動です。都民の声を生かすための質問づくりは実態調査から始まって、チームでの検討と真剣勝負、準備が不充分なときは胃が痛くなる思いです。特に、住民の声が生きた形で質問に反映でき、行政の姿勢を正したときはこんなにうれしいことはありません。

4期目は、続けて都市整備委員会でしたので、「都市再生」といっては巨大な超高層ビル建設を進めることによって都内の二酸化炭素排出量が増大する、環境への負荷を抑えるべきだと、 これでもかこれでもかと質問しました。質疑では四苦八苦ですが、石原知事の「都市再生」路線と対決していると思うと力が入りました。

毎回、取り上げてきたのでたぶん都市整備委員会の理事者は植木にうんざりしているのではないかと思っていました。ところが、「都市再生についての意見は異なりますが、 植木さんの厳しい指摘もあり、建築物の環境対策を促進するようになりました。」といって声をかけてくれる幹部職員や退職後、海外での環境対策の仕事についた方からは温室効果ガスの削減など「日本の知見や技術についてアドバイス」する仕事に意欲を燃やしているとわざわざメールをいただきました。議会ではたびたび対決してきましたが、こうした声をいただいて私の努力がいくらかでも生かされていると、大変うれしく思いました。

これからも都民の期待に応え切実な要求を反映させるため、努力、努力の毎日です。

 

5honnoueki 4期16年の実績とこれからの公約をまとめたパンフレットです。

是非ご覧ください。(PDFファイル3.6MB)

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